「わたし」が「かれ」でなかったのは「たまたま」じゃないのか(3)

ソーシャルワーク・タイムズ vol112 子連れソーシャルワーク留学 in カナダ vol.57

· 高齢者

介護職員が入居者の方を落下させて逮捕された事件に触発されての考察の3回目(最終回)です。

前回、介護が感情労働と言われることについて考えました。介護職の語りからは「感情労働だからキツい」のではなく「感情労働ができなくてつらい」と捉えられていることを紹介しました。

介護の仕事はよく「お金のためだけではできない。だから個人的な適性が重要である」と言われますが、本当にそうでしょうか。(本来「仕事」を選ぶ基準は「お金のため」という理由であってもよいはずです。それが「仕事」なのですから。)

確かに仕事には(どの仕事であっても)向き不向きはあると思いますし、個人的な要因でストレスの度合いが変化したり、様々なリスクが高まるかもしれません。 

であるなららば、であるからこそ、私が介護の現場で働いていた頃、感じていた、次のようなことをぜひ伝えたいです。

「優しい介護職員」を求めるならば、そうなれる待遇や環境がほしい

「我慢が必要」なら、それができる環境をつくってほしい

人を育てるという気持ちをちょっとでもほしい

「とりあえずやってみて」じゃなくて、もう少し丁寧に教えてほしい

パワハラみたいな指導はやめてほしい

「これ誰がやったの?」という犯人探しのような言い方はやめてほしい

普通程度でいいので(職員同士)丁寧に接してほしい

職場内での悪口や陰口を止めたい

夏場のお風呂当番は熱中症になるくらい大変なので、出来れば午前と午後で誰か変わってほしい

時間やノルマに追い立てられずに、ご利用者さんのペースで接したい。

ご利用者さんともっと話したい。たまにはご利用者さんと、ゆっくり散歩でもしたい…などなど。

わたしは、「たまたま」いい仲間と先輩に恵まれたから、「たまたま」我慢強かったから、「たまたま」他の仕事もあって介護はパートだったから負担が少なく、「たまたま」楽しく続けることができた。

だから、「たまたま」わたしは「かれ」ではないのだ、と感じています。

当時、仕事や職場に感じていたことを、愚痴としてではなく、個人の向き不向きでもなく、仲間と真面目に話したかったと思います。そして、それが少しでも可能になる環境や仕組みを、知恵を出し合いながら作りたかった、と思います。賃金や待遇など解決に時間がかかることに取り組みつつ、すぐに出来ることもあるはずです。

もちろん、たとえ介護が感情労働であったとしても、待遇や環境が悪かったとしても、何があっても、犯罪行為は絶対だめです。これは分かりきったことです。

しかし同時に、介護という仕事が「たまたま」ではなくて、職員が辛い思いをしなくてよく、働きたいと思う人が「普通」に働き続けることができるものになってほしいと思います。「普通」に働き続けられる環境があることが、その分野を成長させ、その道のプロを育てると考えます。

私は介護の仕事が好きです。そして自分も含め介護を仕事にして頑張っている(いた)人を誇りに思っています。今は現場にいませんが、介護をめぐる厳しい状況に対して、今後、私に何ができるのか、考え続けていきたいと思っています。 

過去3回書かせていただいたことは必ずしも介護の現場だけで起こっていることではないと考えています。対人支援のお仕事をしている皆さん、一緒に考えていきませんか。(おわり)