時代と場の「空気感」と負担感

ソーシャルワーク・タイムズ vol.143 子連れソーシャルワーク留学 in カナダ vol.79 より転載

· 児童・教育

ソーシャルワークでは、クライアントのアセスメントにおいてBio-Pycho-Social(バイオ、サイコ、ソーシャル)の考え方が大切だと言います。身体的・生物学的、心理学的、社会的側面を包括的に検討し、介入方法や支援プランを考えなくてはならないという考え方です。

私はこれらに加えて、現在その人の置かれている「時代」と、場の「空気感」が、クライアントの負担感や生きづらさに影響していると考えます。

例えば、介護に関して。

介護を担う家族も、介護の仕事に関わる人も、日々、介護度に応じて噴出する問題や、数年ごとにかわる制度に振り回されています。先進各国の急速な高齢化は、世界的に見ても新しい現象です。

特に日本ほど高齢化率が高い社会は、これまでの歴史上ありません。老々介護、ダブルケア、高齢者への虐待や介護殺人、施設やケアワーカーの不足など、誰も経験したことのない状況ばかりなのです。

さらに日本には、介護は家族(特に女性)がすべきもの、という家族観が強く存在しているように思います。これらの「空気感」が、家族にさらにプレッシャーを与えています。

子育てに関して。

歴史的に見ても、今ほど母親が(一人で)子育てと子どもの教育に深く関わっている時代はないのでは…と思います。

未婚の人の増加、少子化、ここ十数年で虐待などが可視化されてきました。同時に、女性の生きづらさや負担感も語られることが増えました。最近では産後の女性に対するケアの必要性なども広く認識されるようになってきました。

ご存知の通り、昔は農村では大家族で子育てを担っていたり、富裕層はお手伝いさんや乳母が子育てをしていました。今のように母親が(ほぼ)一人で子育てをし、教育にも深く関わる時代はここ数十年だと言われています。

大正から昭和にかけての都市化による家族形態の変化(核家族化)や、高度経済成長以降に男性が企業に終身雇用されるようになった日本型雇用の広がりによって「専業主婦」が誕生したためです。

さらに90年代のバブル崩壊、2000年代の不況、雇用形態の変化(非正規の増加)により、今では専業主婦は少数となり、子どもを持つ多くの女性が(多くの場合はパートタイムで)賃労働をしています。

しかし日本では性別役割分業意識(女性は家庭、男性は仕事)が未だに強く、女性が多くの子育て、家事の無償労働を担っています。2012年の1日の「共働き家庭における」家事・育児時間は平均で男性39分、女性4時間53分でした(注)。

現在、教育面でも家庭や学校以外でのサポートが当たり前のように必要とされています。小さいころは漢字、九九、筆算の練習から、大きくなれば中学、高校、大学受験の学校選びから受験のサポートまで。

個人的な話をすると、私は社会の空気感に敏感な方であるらしく、自分から合わせていくタイプだとここ数年自覚しました。昔から無意識のうちに「周りの期待に応えなければ」という思いがあった私は、「社会」や「制度」で要請される役割を担ってしまいがちであるため、きつくなる時があるんだなーと自己分析しています。

子育てにおいても、「世間」や「空気」を読んで行動するという傾向があります。子どもには「世間」のルールや規律を守らせなくては…、それらを守れる子どもに育てなければ…、学校の宿題をきちんとさせなくては…、「きちんと」育てなければと考えてしまいます。でも自分のことではないので、うまくいかずにイライラ。

反対に「世間」や学校や保育園など社会のルールに対して「本当にそれが必要?!」「どうしてそんな規則が必要なの?」などと考えてしまうこともしばしばあって。「本音ではどうでもいいと思っていることを、社会に要請されているように感じて、守ら(せ)ないといけない」と、変に自分を追い込んでいってしまっていました。

そしてその結果、(自分で納得して選択している行動ではないので)自尊心が下がったり、社会や制度や家族や子どもたちに対して怒りの感情が湧きあがったり、負担感が増したり…。

ただカナダに来てからは、その負担感がぐっと減ったような気がします。それは、カナダの社会が多様性を容認しているから…というより、トロントという都市では様々な人がいることが要因かも。

そしてカナダの学校では、家庭や親に求めることが少ない(ように感じる)、学校の先生が子どもを褒めてくれることが多いなど、様々な要因が考えられます。

子どもの世界は子どものもの。学校と子どもの関係と、家庭の中で親と子どもの関係はまた別ものだと考えることができるようになってきました。私は、学校や社会の代弁者ではないのです。

同時に、家庭の中で母親という役割のみを担うのではなく、個人としての自分自身を大切にすることも心がけ、自尊心を下げぬように練習(という言い方が一番近いと思います)してきました。

が、カナダでも、私のジレンマと自尊心が下がりそうになるトリガー(きっかけ)があることに気づきました。それはカナダにおける日本社会、週に1回通っている補習校です。

補習校は日本の文科省のカリキュラムに基づいて日本語で学習します。今行っている補習校は4科目ありますが、週に1回なので、当然家でやらなくてはならないことが大量にあります。宿題の丸付け、直し、音読、漢字、作文、日記など…。

息子は補習校での勉強が少し苦手(特に、漢字や作文)。でも「もう4年生なのだから、自分で計画してやって欲しい。やらなくて困るのは自分」という考えで、親である自分はなるべく介入しないようにしたいのですが…そう簡単には行きません。「親の指導が大切」「必ずやらせて、家で親が確認してください」「丸つけをして直して提出しましょう」などと学校から言われてしまうと、介入しないわけにはいきません…。

最近のトリガーは、先生の赤ペンで書いてくれるコメントです。担任の先生は、良かれと思って細かくプリントなどに指導してくださっていると思うのですが、それが親としてはプレッシャーになっています。親である自分に対して「お母さん、しっかり見てください」と言われているような気がするのです。

私の考えすぎかもしれません。そんな空気には左右されず、マイペースに、私は私でいけばいいのでしょう。しかし、私はどうやら真面目で、しかも、そんなに強くもないらしいのです(笑)。

補習校はきっかけでしかなく、私はどうやら「社会」とか「世間」とか「きちんと」とか、実態のよく分からない場の「空気感」によって、負担感が増幅してしまうようです。これまで日本の教育制度と、自分が育った環境から植えられた「清く、正しく、美しく」的な精神は、簡単には抜けることがないのだなと実感しています。

大前提として、私は子どもは好きですが、日本にいる時によく感じる、子どもの教育やしつけが親の責任になる感覚は、これ以上は受け止めることはできそうにありません…。そういう世間の空気感も、女性を追い詰め、少子化に影響しているのではないかと個人的に思っています。

周りの「空気」を自分に合うものに変化することができればいいなと思うのですが、外部要因に対しては、できることとできないことがあるのも事実です。(バスや電車でベビーカーをたためと言われたり、電車で子ども連れに対して嫌な顔をされるとか、親が出る行事や会合が多いとか、先生から電話がかかってくるとか、学校にどうでもいい変なルールがいっぱいあるとか、有給が取りにくいとか、そもそもパートで有給がないとか(あるけど取れないとか))

福祉に関わる皆さん、いまの時代の「空気感」、自分の組織の「空気感」、自分が作っている「空気感」、クライアントが感じているだろう「空気感」に敏感になっていますか?ぜひ一度、感じてみてください。「当然と思っていることは当然か?」を感じてみてください。

当事者になって、「感じる」ことは辛いこともありますが、そこからの学びも大きいです。

また歴史的要因を学ぶことは、自分の負担感を理解することにもつながります(すくなくとも私は)。外的要因が変えられない環境にとどまることは、ストレスがかかるので、セフルケアも大切にしなくてはなりません。なんとかこの時代と場と、今の自分のライフステージをやりすごしながら、生き延びねば…と思っています。

(注)総務省:平成23年 社会生活基本調査